モチベの差

そういやひさしぶりに遊戯王やっててそこそこ楽しかったんだけど、トップメタ連中とやって勝とうって気は一切起きなかった。

トップメタと当たったらまぁそれはそれでいいかなって感じだったから小学生と当たってラッキーとかそういうのはもちろんなかったんだけど、MtGみたいにとにかく考えて勝とうって考えがないのはなぜなんだろうか。
まぁ純粋に好きなゲームじゃないからって言葉で一蹴することはできるんだけど、それもちょっと違う気がする。今日普通に楽しかったから嫌いじゃないだろうし、引退理由のクソみたいな事故もなかった。
たぶんだけど俺が遊戯王嫌いっていうのはなんかフィルターみたいなのがかかってて、そう考えるように自分から思い込んでるっぽい。まるで老害みたいだ。

っていうのは置いといて。
で、このモチベの差はなんだろうなって考えてたんだけどたぶん自分でデッキ考える楽しさの差なのかもしれない。

遊戯王のメタデッキっていうと、それはメタデッキというよりメタテーマに近い。
ネクロスが強いとかシャドールが強いとかクリフォートが強いとか、テーマで強烈なシナジー組んでてコナミの言うとおり組んでたら強いデッキが出来上がる。
もちろんそこにメタカードを突っ込んだりするので大きく変わってくるんだけど、メタカードを含まない純粋なパワー比べになると中堅以下のテーマなんて勝ち目がほぼないと言っていい。メタカードを入れたとしてもまだ不利であることには変わりないだろう。よほど相性が悪くないなら。

テーマごとに強さが違うなんていうのは武士ゲーでも遊戯王でも一緒かもしれないのだが、一度MtGのメタゲームを知ってしまうとそのメタゲームでは満足しきれなくなってしまう。
遊戯王のメタゲームの場合、例えば征竜魔導時代のメタゲームで考えると、遥か彼方の宇宙空間ぐらいで征竜と魔導が戦っており、ぎりぎり大気圏出れないぐらいのところにヴェルズが存在しており、雲の下は有象無象で征竜魔導に手すら届かない。ヴェルズを引き摺り下ろすことはできるのだが、征竜魔導には届いていないので結局意味がない。
要するに、メタデッキ同士、いや、メタテーマ同士だけがメタゲームを繰り広げており、他のテーマはどう頑張ってもメタゲームには参加できない。パワー差でひき殺されるだけだ。
もちろん、全テーマをメタゲームに参加できるようにしろ、なんて言わない。征竜魔導環境にいきなりワームやヴァイロンなんかがメタゲーム入りできるわけがなく、カードパワーが上がり続けるこのゲームで過去のテーマが廃れるのは仕方がないこと。
しかし俺が言いたいのはそういうことではない。もっと自由なメタゲームをさせてほしい、ということだ。

MtGのメタゲームはどうかというと、常に強いアーキタイプは存在する。レガシーにおけるスニーク・ショーやモダンにおける出産の殻(こちらは既に禁止)なんかだろうか。このあたりについては俺もほとんど知らないし、俺が言いたいのはモダンレガシーのメタゲームの話ではなく、スタンダードにおけるメタゲームだ。
今回のスタンダードにおけるメタゲーム、とりわけ説明しやすいのがタルキール覇王譚におけるメタゲームだ。
当時はポルクラノス、森の女人像、クルフィックスの狩猟者を使った緑系ミッドレンジのデッキが強いと言われており、マナクリによるマナ加速、狩猟者によるアドバンテージ、ポルクラノスによるボード取りと、タルキールのカードがほとんど見向きされていなかったために起こってしまったことなのだが(実際にサイやソリン等もっと強いカードは存在した)、そのメタゲームを見事に読み青黒コントロールを選択した人たちがいた。
メタゲームというのはそうでなくてはならない。強いデッキが現れ、それを殺せるメタデッキが現れ、さらにそのメタデッキをも殺せるデッキも現れる。
このメタゲームを知ってしまうと遊戯王には戻れない。遊戯王を引退した時点ではそんなこと微塵も考えていなかったのだが、今遊戯王を改めてやる気になれないのはこういうことではないだろうか。
限られた中でできることをするのではなく、限られててはいけない。かといってどのデッキにも入ってしまうカードでもいけない。

そうやって自由に構築する楽しさを知ってしまったからおそらく戻れない。フリーではやってもトップメタを組んであれこれやろうとは思わない。思えない。
そこにプレイ以外の楽しさがないから。


結局MtGをよいしょする内容っぽくなったけど別に遊戯王や武士ゲーを批判したいわけではないです。どっちも楽しんでいる人がいるようですし、その人たちなりの楽しみ方をすればいいだけなんですから。